※アフィリエイト広告を利用しています

歴史

鎖国なのになぜオランダはOKだったのか?理由をわかりやすく解説!

鎖国




「鎖国」というのは、かんたんに言うと
「日本はしばらく、よその国と関わりません」という約束ごとです。

まず、外国の人が日本に来ることを禁止しました。
そして、日本にいる人も、勝手に外国へ行ってはいけない。
つまり、「海外旅行はダメですよ」という命令です。

外にも出られないし、外からも人が来られない。
まるで国じゅうにカギをかけて、
閉じ込めてしまったような状態ですね。

でも実は、日本がそんなふうに
閉じこもりの国だったわけではありません。

むしろ、戦国時代から江戸時代の初めにかけては、かなりオープン。
外国人も日本に来ていたし、日本人も外国へ出かけて、
貿易を通じていろんな国とつながっていたのです。

それが少しずつ、「この国の人は来ちゃダメ」
「あのルートでの海外渡航はダメ」と、
幕府からダメ出しが出るようになりました。

では、誰が、どんな理由で、
どんな相手にダメ出しをしていったのか。

そして、なぜオランダだけが
例外として許されたのか?

今回は、鎖国の本当のしくみと、
オランダが特別扱いされた理由について
わかりやすくひもといていきます。

スポンサードリンク




鎖国が始まる前、日本はわりとオープンだった?

鎖国というと、
「最初から日本は外国とつながる気がなかった」
と思われがちですが、実はそうではありません。

江戸時代のはじめごろまでは、
外国人も日本に来ていたし、
日本人も海外に出かけて、
しっかり貿易をしていました。

鎖国

では、どんな外国人が日本に来ていたのかというと——

・オランダ人
・イギリス人
・ポルトガル人
・スペイン人

この4つの国の人たちです。
つまり、日本には「4種類のヨーロッパ人」が来ていた
ということですね。

オランダ・イギリスとの貿易、
そしてポルトガル・スペインとの貿易。
これらは戦国時代のころから行われていました。

だから、鎖国というのは簡単に言えば、
こういう状態を指します。

「この4種類の外国人、もう日本に来ないでください」

つまり、外国人に対して
「来るのはダメ」という命令が出されたということです。
これが、鎖国における外国人へのダメ出しというわけです。

けれど、これだけでは鎖国とは言えません。
もうひとつ、大事なダメ出しがありました。

それが、日本人に対するものです。

朱印船貿易

当時の日本人は、海外に出かけて貿易をしていました。
これを「朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)」といいます。

「朱印状(しゅいんじょう)」という、
政府からの許可証を持っていれば、
東南アジアなどの外国に行って、
品物を売ったり買ったりすることができたのです。

でもやがて、
「日本人も、もう海外に行ってはいけません」
という命令が出されます。
これが、鎖国における日本人へのダメ出しです。

外国人には「来るな」
日本人には「行くな」

この両方の命令がそろって、
ようやく「鎖国」と呼ばれる状態になったのです。

では、そのダメ出しは一体、
誰が出したのでしょうか?

徳川三代

ここで登場するのが、
徳川将軍の初代・2代目・3代目です。

まずポイントとして、
初代の徳川家康は、基本的に何もしていません
ダメ出しゼロ。
むしろ「貿易OK、海外渡航OK」というスタンスでした。

これは、スポーツでたとえるとこんな感じです。

家康は、試合中に選手の動きを
いちいち止めるタイプの審判ではありません。
どちらかといえば、
「ルールを守っているなら、自由にプレーしていいぞ」
と言ってくれる監督のような存在です。

ミスをしたからといって怒鳴ったりベンチに下げたりせず、
「お前らのやり方で、どんどんやってこい。
海外とも試合してきなさい」
と背中を押してくれるタイプ。

つまり、当時の日本人(貿易商)や外国人たちは、
けっこう自由にプレーできていたわけです。

だから鎖国という観点では、
家康は動かなかった人として
シンプルに覚えておいて大丈夫です。

では、実際にダメ出しをしたのは誰か。

それが、2代目の秀忠と、3代目の家光です。

2代目・秀忠がやったのはダメ出し2つだけ
これだけはしっかり覚えておいてください。

そして、3代目・家光。
この人はもう、
ありとあらゆるダメ出しを
一気にまとめて出しています。

つまり、こう覚えておけばOKです。

● 秀忠はダメ出し2つ
● あとは全部、家光がまとめてやった

このシンプルな覚え方で、
鎖国の流れはグッと頭に入りやすくなります。

とはいえ、初代の家康が「何もしてない」とはいっても、
完全に放置していたわけではありません。

基本スタンスとしては、
ルールを守っているなら、別にOK。
ちゃんとした貿易なら歓迎するよ」という考え方でした。

つまり、外国人に対しても、日本人に対しても、
「ちゃんとマナーを守るなら、どうぞご自由に」
という立場だったわけです。

放任コーチ

これをスポーツでたとえるなら、
バスケットボール部の放任型コーチのようなものです。

家康は、いちいちプレーに口出ししません。
「そこはパスしろ」とか「ドリブル禁止」なんて言わない。
でも、「反則だけはダメだぞ」
「試合がめちゃくちゃにならないようにしような」
とだけは言う。

つまり、ルールの枠さえ守っていれば、
プレイヤーの動きを信じて自由にやらせてくれるタイプ。
だから、貿易をしていた人たちも、
外国の商人たちも、けっこうのびのび動けていたのです。

ただし、そんな家康でも、
ひとつだけ「ちょっと待った」
と言った相手がいます。

それが、ポルトガル商人です。

当時のポルトガル人は、
「ちょっと高く売る」とかいうレベルじゃなくて、
「え、それボッタクリでしょ……」
というようなやり方で、
日本との貿易で大もうけしていました。

糸割符制度

さすがの家康もこれには
「いや、それはダメだろ」と思ったようで、
ポルトガルに対して
糸割符制度(いとわっぷせいど)」
という新しいルールを出します。

これは一言でいえば、
「値段、ちゃんと決めとくから、それ守ってね」
という制度です。

つまり、「来るな」と言ったわけではなく、
「来てもいいけど、暴利をむさぼるのは許さないぞ」
というルールを出した、ということです。

この糸割符制度によって、
ポルトガル商人はかなり痛い目を見たとも言われています。
でも、それでも家康は「日本に来るな」
とまでは言っていないのです。

朱印船貿易

さらに、朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)についても、
家康はしっかり認めていました。

政府が発行する
「朱印状(しゅいんじょう)」という許可証を
持っている人は、
外国へ出かけて自由に貿易をしてよい、という制度です。

つまり、家康はこういう考え方だったんです:

「ちゃんと許可取って、まじめにやるなら、
どんどん海外行ってこい」
「外国人も、ちゃんと商売するなら歓迎するよ。
でもボッタクリはダメね」

これが、初代・徳川家康のスタンスです。
「鎖国」という意味では、ダメ出しはしていない。
そう覚えておけばOKです。

さて、ここからが本番です。
2代目・徳川秀忠(ひでただ)。
彼こそが、鎖国へのダメ出しを
最初に本気で始めた将軍です。

覚えておくべきことは、たったひとつ。
秀忠がやったダメ出しは、2つだけ。

この2つをしっかり押さえておけば大丈夫です。

(1)キリスト教は禁止!

禁教令

まず1つ目は、
「キリスト教を信じちゃダメ!」という命令
です。
これを「禁教令(きんきょうれい)」といいます。

1612年、秀忠はまず天領(てんりょう)、
つまり幕府が直接支配している土地で
キリスト教を禁止しました。
そして翌年、1613年には、それを全国にも広げたのです。

つまり、こういうことです:
「もう日本人はキリスト教を信じちゃいけません」

この命令を最初に出したのが、2代目の秀忠です。
禁教令を出したのは秀忠だよ」と、
ここはしっかり覚えておきましょう。

(2)武家諸法度(ぶけしょはっと)を初めて出した!

そして2つ目。これは一見、
「鎖国と関係ないんじゃないの?」
と思うかもしれませんが、
実はかなり大事なダメ出しです。

ここでちょっと整理しておきましょう。

そもそも「大名」って何?

大名

大名とは、全国にあるそれぞれの地域(藩)を
おさめていた武士のトップです。
いまで言えば、「地方知事」や
「自治体の社長」みたいなもの。

この時代、日本全体のリーダーは
江戸にいる将軍(=幕府)ですが、
現場で人を動かしていたのは、この大名たちです。

だから、もし大名たちが勝手に暴れ出したら、
国のまとまりなんてすぐに崩れてしまう。
そこで、将軍は「お前ら、好き勝手すんなよ?」
とルールを出す必要があったのです。

秀忠が作ったそのルールが、
武家諸法度(ぶけしょはっと)」です。
全国の大名たちに向けて、
「こうふるまいなさい」という決まりごとを示したのがこれ。

では、この武家諸法度を
もっとわかりやすくするために、
たとえ話を2つ紹介しましょう。

▷ ソシャゲ運営でたとえると…

・大名 = プレイヤー
・幕府 = ゲーム運営
・武家諸法度 = プレイヤー向けの行動制限ルール

いままで自由に育成や
バトルをしていたプレイヤー(=大名)に対して、
運営(=幕府)がこんなルールを出します:

「強化素材の使用は1日3回まで」
「ランキングイベントの参加条件はレベル50以上」
「PvPでは一部キャラの使用を禁止します」

つまり、「もう勝手に動くな。
運営が出したルールに従ってね」という通達です。

武家諸法度もまさにこれと同じ。
「お前ら武士は、ちゃんと幕府の指示にしたがえよ?」
というルールブックだったのです。

▷ フェス出演者でたとえると…

・大名 = 出演者(アーティスト)
・幕府 = フェスの主催者
・武家諸法度 = 出演ルール一覧

たとえば、音楽フェスで、
いままで自由にMCや演奏をしていたアーティストたちに対して、
ある日こんなルールが配られたとします:

「演奏時間は15分以内」
「MC(しゃべり)は1分まで。オーバーしたらカット」
「物販は所定のブースでのみ。会場内は禁止」

これまで自由にふるまっていた出演者に対して、
「うちはちゃんとルールあるから、それに従ってね」
と主催者(=幕府)が言い始めた。
まさに、そういう空気が武家諸法度の登場で生まれたわけです。

ちなみに、このときにはまだ
「参勤交代(さんきんこうたい)」は入っていません。
それは後の将軍(つまり3代目・家光)が追加するルールです。

でも、ここで「武士たちの行動を、
幕府がきちんと管理するぞ」という意思表示がなされた。
これも立派なダメ出しのひとつです。

というわけで、2代目・秀忠の“ダメ出し”はこの2つ。

(1)禁教令(キリスト教ダメ)
(2)武家諸法度(武士へのルールブック)

この2つをしっかり覚えておけば、
秀忠パートは完璧です。

あとは、いよいよダメ出しフルコンボの
3代目・徳川家光の登場です。

ここから、鎖国の完成に向けて
一気にギアが上がっていきます!

……とその前に、もうひとつ。
実は2代目の秀忠、外国人に対しても、
はっきりとダメ出しをしていました。

それまで、日本には4種類の外国人が来ていました。

・オランダ人
・イギリス人
・ポルトガル人
・スペイン人

です。

彼らは、日本のいろんな港に、
わりと自由に立ち寄って、
各地で貿易をしていました。

でも秀忠は、こう命じたのです。

「どこの港に来てもいい、
というのはもうやめにしよう。
来ていいのは、この港とこの港だけにする」

つまり、外国人が日本全国の港に
自由に立ち寄ることを禁止して、
来てもよい港を2か所だけにしぼったということです。

それが、1616年に出された命令で、
貿易港を平戸と長崎の2つに限定する」という内容です。

この平戸(ひらど)と長崎(ながさき)は、
どちらも今の長崎県にあります。

「来てもいいよ」とは言っているけれど、
立ち寄れる場所をガチガチに
決めてしまったという点では、
これも立派なダメ出しです。

つまり、2代目・秀忠の仕事はこうなります。

2代目・秀忠の仕事は

(1)武家諸法度を初めて出した
(2)キリスト教禁止の禁教令を出した
(3)外国人が立ち寄れる港を平戸と長崎の2つだけにした

さて、残りのダメ出しはすべて、
3代目・徳川家光(いえみつ)の仕事です。

ここからは、年号順に見ていきましょう。

(1)まずはスペインに対してのダメ出し(1624年)

1624年、家光はスペインに対して、
こう言い放ちます。

「もう、日本に一切来なくていいです」
「今後、日本との貿易も、出入りも、一切禁止」

これによって、
スペインは日本から完全に締め出されることになりました。

これが、家光のダメ出しその1です。
いきなり国ごとブロックに入りました。

(2)日本人に対してもダメ出しスタート(朱印船 → 奉書)

当時、日本人が海外へ出かけて貿易をするためには、
「朱印状(しゅいんじょう)」という幕府の許可証が必要でした。

でも、家光はこう言います。

「朱印状だけじゃダメです。
これからは、もっと上のレベルの許可が必要です」

そこで新しく登場したのが、
「奉書(ほうしょ)」という書類です。
これは、将軍の名前で正式に出される、最上級の許可証です。

家光はこう決めました:
「奉書を持っていないと、外国へは行けません」

つまり、朱印状だけじゃ不十分。
奉書という超・厳しい許可がないと、
もう海外へは出られないという新ルールができたわけです。

(3)でも家光、それすらも全面禁止にする(1635年)

ところが家光は、
さらにここからもう一段ギアを上げてきます。

「もういい。どんな許可証を持っていようが、
日本人は、海外旅行そのものを全面禁止!」

そう命じたのが、
1635年のことです。

これが、日本人へのダメ出しその1。
どんなに昔に朱印状をもらっていても、
奉書を手にしていても、関係なし。

すべての日本人に対して
「海外に行くのは禁止!」という命令が出されました。

(4)そして、帰国すら禁止に(同じく1635年)

さらにこの年、
家光はもうひとつの命令を出します。

それは、
「すでに海外に住んでいる日本人も、
もう日本に帰ってこなくていい」

というもの。

つまり、日本人が海外に出るのも禁止。
帰ってくるのも禁止。

これで、日本人は物理的に
外の世界とのつながりを絶たれたことになります。

この時点で、「出るな・戻るな」が完全にそろいました。
ここが、家光による本気の締め出しゾーンです。

(5)島原の乱と、ポルトガルへのダメ出し(1637〜1638年)

そして次に起こったのが、
島原の乱(しまばらのらん)です。
これは、1637年〜1638年にかけて起こった、
大きな農民の反乱です。

場所は、いまの長崎県・島原地方。
反乱を起こしたのは、
キリスト教を信じていた農民たちでした。

この反乱は幕府によって弾圧・鎮圧されます。

そしてこの事件をきっかけに、
家光はさらなる決断を下します。

「キリスト教を広めに来る外国の神父(宣教師)を乗せてくる船、
特にポルトガル船は、もう日本に来るのは禁止!」

ということで、
ここでポルトガルへのダメ出しが実行されます。

スペインに続き、今度はポルトガルも、
日本から締め出されることになったのです。

(6)鎖国の完成(1641年)

そして最後の仕上げが、1641年。

これまで外国人が立ち寄っていた港は、
平戸(ひらど)と長崎(ながさき)の2つでした。

ところが家光は、
ここでこう言います。

「もう平戸はいらない。
外国人が来ていいのは“長崎”だけにする」

つまり、平戸のオランダ商館を、
出島(でじま)に移させたのです。

これが、いわゆる
「鎖国の完成」と呼ばれる出来事です。

教科書では、こう書かれています。
「1641年には、平戸のオランダ商館を出島に移し、
ここに鎖国が完成した」

このように、家光の時代に入ってからは、
スペイン→奉書→海外禁止→帰国禁止→ポルトガル禁止→出島と、
怒涛のダメ出しラッシュが一気に進んでいきます。

ここまでくれば、
鎖国とは何だったのか?」という全体像が、
かなりはっきり見えてきたのではないでしょうか。

それでも、オランダ人だけは日本に来られた

「もう外国人は誰も来られない!」……
と思いきや、1つだけ例外がありました。

それが、オランダ人です。

出島

家光は、オランダに対してはこう言いました。
「他の国はダメだけど、オランダ人だけは長崎ならOKです」

ただし、自由に長崎の街を
歩き回っていいわけではありません。

幕府は「出島(でじま)
という小さな埋め立て地を長崎につくり、
「来てもいいのは、この島の中だけ!」と決めたのです。

スポンサードリンク




鎖国なのになぜオランダだけ許された?その理由をやさしく解説

ここで気になるのが、
「なぜオランダだけが特別扱いだったのか?」という点です。

実は理由は大きく2つあります。

ひとつ目の理由は、
オランダはキリスト教の布教にあまり熱心ではなかったということです。

当時、日本が警戒していたのは
「キリスト教を広めようとする国々」でした。

スペインやポルトガルは、
商人といっしょに宣教師もやって来て、
布教をどんどん進めていました。

ところが、オランダはプロテスタントの国で、
布教活動にあまり力を入れていませんでした。
そのため、「オランダは危険じゃない」と、
幕府に判断されたのです。

ふたつ目の理由は、
オランダが日本のルールに従順だったことです。

「出島にしか行かない」「布教はしない」
「幕府の決まりは守る」
——そういった態度が、他の国とはちがって信頼されたわけです。

このように、オランダは「布教しない」
「言うことを聞く」という点で、特別に信頼されていた。

だからこそ、「出島限定ならOK」となったのです。

つまり、ものすごく制限つきで、
オランダ人だけは日本に来続けることができたわけです。

スポンサードリンク




鎖国の正体とは?

ここまで見てきた内容をまとめると、
スペインにダメ出し、日本人にダメ出し、
ポルトガルにダメ出し、
でもオランダだけは長崎の出島限定でOKにする。

これが、「鎖国」の正体です。

「鎖国」と聞くと、
「当時の日本には、もう誰ひとり外国人は
来ていなかったんだよね?」

と思いがちですが、実際には「来ていた外国人」もいたのです。
つまり、完全に外国をシャットアウト
していたわけではなかったということです。

スポンサードリンク




鎖国中にも、日本に来ていた4つの国

実は、鎖国の間でも、
日本に来ていた外国人は4つの国からやって来ていました。

この4か国は、2つのグループに分けて
覚えると分かりやすくなります。

① 「通商国(つうしょうこく)」=商売だけの関係

このグループは、
国と国の正式な外交関係(=国交)はないけれど、
商人だけなら日本に来ていいよ」という国です。

言いかえれば、外交官は来られないけど、
貿易のための商人はOKという扱いです。

このグループは以下の2つ

(1)オランダ
(2)清(しん)=当時の中国

どちらの国も、「政治の話はナシ。
あくまで商売だけね」という条件つきで、
長崎にだけ来ることが許されていました。

② 「通信国(つうしんこく)」=外交があった国

こちらは、ちゃんと外交関係(国交)を結んでいて、
外交官のやり取りもあった国です。

これに当てはまるのが、

以下の2つ

(1)朝鮮(ちょうせん)
(2)琉球(りゅうきゅう)=今の沖縄

朝鮮とは、正式な国交があり、
使節(しせつ)と呼ばれる外交の代表も来日していました。

琉球はちょっと特殊で、
当時は「半分独立した国」のような扱いです。

琉球王国には王様がいて、
政治も自分たちでしていました。

ただし、鹿児島の島津(しまづ)家に服属している、
ということになっていた一方で、
中国の清にも「服属してます」と伝えていました。

つまり、日本と中国の両方に頭を下げていた、
独自のポジションにいたのです。

鎖国中に日本に来ていた「4つの国」まとめ

鎖国中も日本に来ていた4つの国

🟡 通商国(=商人だけOK)
・オランダ
・清(=中国)

🔵 通信国(=外交官も来る)
・朝鮮
・琉球(=沖縄)

これが、「鎖国」=完全な閉ざされた世界では
なかったという理由です。

でも、誰でも自由に出入りできたわけではありません。
来られる国も、来られる人も、
場所も、すべて幕府がガッチリ管理していた。

それが、江戸時代の「鎖国」だったのです。

あれ? ヨーロッパの「4か国」って言ってなかった?

さて、ここで最初の話を思い出してみましょう。
家康の時代には、ヨーロッパから
4種類の国の人たちが来ていたという話をしましたよね?

その4つとは、

(1)イギリス
(2)オランダ
(3)ポルトガル
(4)スペイン

です。

すでに見てきたとおり、
スペインとポルトガルには、
「日本に来てはいけません」というダメ出しが出されました。

オランダは、長崎の出島限定で来続けることができた。
……となると、気になるのがイギリスです。
「イギリスって、どうなったの?」
という話なんですが、
実はイギリスには、
ちょっとした事件がきっかけで、
来なくなったという背景があります。

その事件が起きたのは、1623年のこと。
舞台は、日本ではなく、今のインドネシアです。

インドネシアにあるアンボイナという港町で起きた事件なので、
これを「アンボイナ事件」と呼びます。

このインドネシアのアンボイナという港町で起きたアンボイナ事件。
これがきっかけで、イギリス人は日本に来なくなりました。

どういう事件だったかというと、
このアンボイナという港町では、
オランダ人とイギリス人が一緒に住んでいたんですね。
ところが、1623年に両者が対立し、
オランダ人が、イギリス人を虐殺するという事件が起きてしまったのです。

それまでは、オランダの船もイギリスの船も、
いったんこのアンボイナという港で補給をしてから、
日本にやって来ていました。

でも、イギリス人がこの町で虐殺されてしまったことで、
イギリスの船はアンボイナに立ち寄ることができなくなり、
その結果、日本にも来られなくなってしまったんです。

つまり、イギリスはそのあとインド方面に
全力を注ぐ政策に切り替えていきました。

だから、幕府としてはイギリスに対して
「来るな」と命令する必要すらなかった。
勝手に来なくなったわけです。

その結果、幕府が「来るな」とはっきりダメ出しをしたのは、
スペインとポルトガルだけということになります。

アンボイナ事件のあとのイギリスは、
「日本に来航しない国」として静かに姿を消していったというわけです。

スポンサードリンク




まとめ|鎖国なのになぜオランダはOKだったのか?理由をわかりやすく解説!

というわけで今回は、
「鎖国なのになぜオランダはOKだったのか?」というテーマで、
江戸時代の鎖国政策がどのように作られていったのかを、
順を追って見てきました。

「鎖国」といっても、
最初からガチガチに国を閉じたわけではなく、
少しずつ制限を増やしながら形ができていった、
というのが実際の姿です。

スペインやポルトガルのように、
キリスト教の布教が問題視されてダメ出しをくらった国もあれば、
イギリスのように、海外での事件を
きっかけに自分たちで来なくなった国もありました。

その中で、唯一許されたのがオランダ。

なぜかというと——

理由(1)布教活動に積極的ではなかったこと
理由(2)日本のルールに素直に従っていたこと

この2つが大きな理由です。

だからこそ幕府は、出島という限られた場所だけとはいえ、
オランダにだけは貿易を続けることを許したのです。

つまり「鎖国」とは、
ただの「シャットアウト」ではなく、
危険なものは排除し、
信頼できる相手とだけ関係を続けたという、
とても戦略的な政策だったということが分かりますね。