前回の記事では実存主義とはいったいなんなのか?
解説しました。
⇒実存主義とは?わかりやすく解説
・キルケゴール
・ヤスパース
が有名です。
ちなみに無神論的実存主義で有名な人物であれば
ニーチェ、ハイデガー、サルトルが有名です。
この記事では
実存主義の先駆者キルケゴールについてわかりやすく解説していきます。
目次
有神論的実存主義の先駆者キルケゴール
キルケゴールという人は有神論的実存主義で
実存主義の先駆者とされます。
有神論的実存主義についてはこちらん記事で詳しく解説しています。
⇒実存主義とは?わかりやすく解説
キルケゴールの著書を読んでみようと思った方は
『死に至る病』をおすすめします。
⇒死に至る病 (講談社学術文庫) [ セーレン・キェルケゴール ]
キルケゴールが主張した『主体的真理』とは?
![キルケゴールについて学ぶ女性](https://www.management-consultant.info/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif)
・自分にとって真理であるような真理
・そのために生き、死ぬことを願うような真理
のことです。
いかに生きるべきか?
そういうことを考えるときには
誰でも認める正しいことであるような客観的真理はどうでもよくなる。
客観的真理をいくらたくさん知ったところで
・自分にとって真理であるような真理
・そのために生き、死ぬことを願うような真理
は明らかにならない。
むしろいかに生きるべきか?
ということをもし真剣に受け止めるなら
主体的真理を明らかにしなくてはならないと
キルケゴールは主張しました。
くどいようですが、
・自分にとって真理であるような真理
・そのために生き、死ぬことを願うような真理
のことです。
このようなことを主張したので
キルケゴールは実存主義の先駆者だと言われています。
ちなみにキルケゴールの場合だと
主体的真理とはキリスト教における真理ということになります。
キルケゴールが主張した『実存の三段階』とは?
キルケゴールは私たちというものは
三段階を経て真の実存として完成されると主張しました。
実存の三段階(1)美的実存
三段階のうち、最初の段階を『美的実存』といいます。
美的実存を一言でいうと『あれもこれも』という意味合いになります。
美的実存はどういうものか?というと美しいものを手に入れてそれを楽しむ。
これを人生の最高の目的とするというのが美的実存の段階です。
![あれもこれも](https://www.management-consultant.info/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif)
美しいものは数限りなくあるので
『あれもこれも』手に入れたくなります。
だから『美的実存=あれもこれも』となります。
ですが、「やがて私たちは絶望していく」
とキルケゴールはいいます。
どうしてでしょう?
「あれもこれも」手に入れてそれを楽しむ。
これを人生の最高の目的としても私たちは自分の能力では
「あれもこれも」手に入れることはできないということにすぐに気が付く。
このような形で自分の能力に限界があるということに気が付いて
また、その楽しみの中で自分を見失ってしまいます。
ということでここで私たちは絶望するといわれています。
キルケゴールに言わせると
絶望というものは『死に至る病』として捉えられています。
![キルケゴールの著書を読む女性](https://www.management-consultant.info/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif)
キルケゴールは『死に至る病』で
「死に至る病は絶望である」と主張しています。
⇒死に至る病 (講談社学術文庫) [ セーレン・キェルケゴール ]
つまり私たちが絶望している状態というのは
実際に死んでいるわけではありませんが
生ける屍みたいな形になっているということです。
だからなんとかここから抜け出して
次の段階に至るというのが2段階目となります。
実存の三段階(2)倫理的実存
2段階目は『倫理的実存』です。
倫理的実存は『あれかこれか』で表されます。
![決断](https://www.management-consultant.info/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif)
つまり自分できちんと責任をもって決断していくというのが倫理的実存の段階です。
いわゆる市民的な生き方になります。
この段階で十分な感じもしますが
キルケゴールは『私たちは絶望する』と主張します。
自分の有限さとか無力さを痛感することになるからです。
たとえば自分にとってこれが最高にいいことだと思って
決断してやったことが後になって最悪の結果をもたらしたり
もしくは他人に公平によかれとしてやったことが他人をひどく傷つけたり・・・。
そういう場合に私たちは自分の能力のなさや
判断力のなさとか無力さを痛感して絶望するということです。
すべての人間がそのようになるわけではありません。
でも、ある種の人にとってはそこで飛躍が生じて
今度は三段階目の宗教的実存に入ります。
実存の三段階(3)宗教的実存
![宗教的実存](https://www.management-consultant.info/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif)
宗教的実存は『神に向き合う』段階で『真の実存』の完成となります。
宗教的実存において注意しないといけないのは『単独者』です。
単独者とは何でしょう?
神の前に一人で立つということです。
最終的には自分の存在根拠を神に求めます。
その際に神の前に一人で立つというのが単独者という意味です。
この段階がキルケゴールの場合の真の実存の完成ということになります。
以上でキルケゴールについての解説を終わります。