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一般知識

陳勝・呉広の乱はどんな反乱だった?読み方についてもわかりやすく解説

陳勝 呉広の乱 読み方




この記事では陳勝・呉広の乱はどんな反乱だったのか、
秦の始皇帝の時代からわかりやすく解説します。

また、陳勝・呉広の乱の読み方についても
わかりやすく解説していきます。

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陳勝・呉広の乱

陳勝・呉広の乱の読み方

陳勝・呉広の乱の読み方は『ちんしょう・ごこうのらん』となります。

陳勝・呉広の乱について

陳勝・呉広の乱は秦の時代に起きた反乱です。
秦は紀元前221年から紀元前206年までという
わずか15年しか続かなかった時代になります。

秦という国そのものはずっと前から存在していました。
ですが、春秋時代や戦国時代という戦乱の世の中で
周りの国をどんどん攻め滅ぼして
中国を1つにまとめあげてしまったのが秦という国です。
そして中国を1つにまとめあげたのが始皇帝と呼ばれる人物です。

紀元前221年、このころに中国を1つにまとめあげ
始皇帝という人物は兄妹な統治者として皇帝となって
中国を支配したといわれています。

この秦という国は
先ほど解説したように秦は紀元前221年から紀元前206年までという
わずか15年しか続かなかった、長くは続かなかった国です。

でも、中国を1つにまとめあげたという意味で
この国でどんな政策が行われていたのか
こういうところは入試で出やすいので覚えておいて損はないでしょう。

中国を統一するのに大きな役割を果たしたのが始皇帝です。
もともとは秦王政(しんおうせい)と呼ばれていた人ですが、
始皇帝は「私は中国を支配する偉大なものである。
だから王様という名称ではなくてもっと偉い名前が必要だ」
というところから『皇帝』という称号を初めて使ったといわれています。

秦の始皇帝が大事にしていた思想とは?

始皇帝は広大な中国を支配するために
『皇帝のもとに権力を集中させる』
という政治を行おうとしました。
そんな始皇帝が特に好んで採用していたのが『法家(ほうか)』と呼ばれる思想です。
法家思想(ほうかしそう)といいます。

法家思想というのは韓非子などに代表されるものなのですが、
『人間は欲深くてろくなことをしない。だから法律でがんじがらめにして統治しないといけない』
という考え方です。

このような韓非子の考え方と始皇帝があっていたらしく
始皇帝は法家の思想を非常に大事にし、
法家のやり方で国を強くすることを念頭に置いていたといわれています。

どのような思想を大事にしていたか?
始皇帝は『法家思想』を大事にしていたということは
しっかり覚えておいて損はないと思います。

秦の始皇帝はどのようなやり方で中国を支配したか?

では具体的にどのようなやり方で中国を支配したのか?
というと、まず全国を支配する方法として
秦の始皇帝は郡県制(ぐんけんせい)と呼ばれるものを採用しました。
これは皇帝によって任命された官吏(かんり)をそれぞれの土地に派遣して
そこを治めさせるという方法です。
官吏とは役人とか官僚のことです。

この方法をとりますと、
皇帝の命令通りにそれぞれの土地がしっかり治められるという意味で
皇帝のもとに権力を集中させやすい、中央集権的な国づくりを
進めやすいというメリットがあります。

このような郡県制が行われた、
これは秦の時代で非常によく使われる部分です。
郡県制という中央集権的な制度がとられたということは
覚えておいて損はないと思います。

他にも反乱を防止するために武器を没収したり
中国各地でバラバラだった文字とかお金の貨幣とか
長さや面積、体積の単位なども統一し
中国全体が一つの基準でいろいろと進めることができる、
そんなふうな制度を整えた人としても秦の始皇帝は有名です。

他にも北の方に、当時、匈奴(きょうど)と呼ばれる遊牧騎馬民族がいましたが、
後に万里の長城と呼ばれることのなる長い城壁を作り
匈奴という異民族の侵入を防ごうとしたという話も有名です。

あと焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)も秦の時代では覚えておいた方がよいでしょう。
焚書坑儒の焚書とは書物を焼き捨てるという意味で坑儒というのは儒家の思想家たちを
生き埋めにしてやっつけるという意味です。
当時の秦でとられていた法家とは違う様々な
思想はどんどん圧迫されました。
特に儒家の思想、孔子とか孟子とか荀子などの教えを受け継いでいる人々を
徹底的に弾圧しました。

このように徹底的な方法で儒家の思想家たちが弾圧されたといわれています。
ですから秦は法家を特に大事にする一方、
儒家に対しては徹底的に力で押さえつけようとしました。
こういう思想の違いがあったということは覚えておいた方がよいでしょう。

以上のように始皇帝という人物は強権的に中国全体を支配するために
今までとはまったく違った新しいやり方で中国を治めようとしました。

陳勝・呉広の乱はなぜ起きた?

秦の始皇帝が死んでしまいますと
途端に秦という国はガタがきます。

その反乱の結果、秦は滅亡してしまいました。
始皇帝が死んでしまい二代目の皇帝が現れたころから各地で反乱がおこり、
陳勝・呉広の乱という中国の歴史上最初に起きたといわれる
大規模な農民反乱がおきます。
実はこれは法家思想の一つの弊害だったといわれていますが、
法律の適用がとにかく厳格で些細な理由でも命令を守れなかった場合には
情け容赦なく処罰されてしまうのです。

陳勝や呉広という人は雨などの天災のせいで
人々を目的地まで連れていくのが遅れてしまいます。
ところがどんな理由があろうとも遅れた場合は処罰です。

だから大人しくノコノコと行ったら処罰されるに決まっているわけです。
「だったらここで反乱を起こしてやろう」と考えた彼らは
大規模な反乱を起こしました。

そして秦の始皇帝のやり方に対する反発が思いのほか強く
各地でどんどん反乱が大きくなっていきました。
ものすごい不満が強かったわけですね。

陳勝や呉広は途中で死んでしまいますが、
この反乱がきっかけとなり、この反乱で大きな力を持った項羽と劉邦の2人が
中心となって最終的に秦の国を滅ぼすことになりました

こうして秦という国は15年というかなり短い期間で
あっという間に潰れてしまうことになりました。

以上で解説を終わります。