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一般知識

法然と親鸞の違いをわかりやすく解説

法然 親鸞 違い




この記事では法然と親鸞の違いをわかりやすく解説します。

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法然と親鸞は浄土教という共通点がある

法然と親鸞は浄土教という共通点があるので、
先に浄土教について解説します。
でないと法然と親鸞の違いが見えにくいので。

まず日本における平安仏教として有名なのが
天台宗の最澄(さいちょう)と
真言宗の空海です。
まず最澄ですが、比叡山に延暦寺(えんりゃくじ)を建立しています。
『一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう) 』という教えが有名です。

どういうことか?というと
すべての人間が仏性(ぶっしょう)というものを持っているから
『仏(ほとけ)』になることができるということです。
つまり、仏教による救済はあらゆる人間に開かれているということです。

これに対して空海は真言宗で高野山金剛峰寺(こうやさんこんごうぶじ)を建立しています。
そして空海は修行重視です。
三密(さんみつ)という修行がありますが、
これを行うことによって宇宙の統一原理である大日如来(だいにちにょらい)と
一体化することで生きたまま仏になる(即身成仏)ことができると主張しました。

そしてここからが浄土教に入ります。
浄土教で有名なのは空也(くうや)です。
空也は浄土教を広めました。
諸国を遊行(ゆぎょう)して民衆を助けながら浄土教を広めたので
『市聖(いちのひじり)』といわれたりします。

こういう浄土教ですが、
浄土教は何に基づくか?というと
仏教にもともとある『末法思想(まっぽうしそう)』に基づきます。

どういうものか?というと
仏の教えも通じないような世も末の状態になると
阿弥陀仏というものがやってきて、
私たちを極楽浄土に連れて行ってくれる。

そのために私たちは南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏を唱えることが必要だ。
こういう教えが浄土教です。

だから阿弥陀仏の力にすがって極楽浄土を目指すということで
一般的に浄土教というのは他力信仰といわれます。
自分の力ではなくて阿弥陀の力で極楽浄土を目指すから他力信仰です。

浄土教として他には源信(げんしん)がいます。
源信は『厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど』ということをいいます。
「この世の中は汚れている。
だから極楽浄土を目指しましょう」という意味です。

こんな感じで現世を否定するニュアンスがありますので
世の中が混乱したり荒れたりすると
浄土教が流行します。

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法然と親鸞の違い

鎌倉時代に入りますと
浄土教というのが一つの宗派として開祖されます。

浄土教を一つの宗派として開祖したのが法然です。
法然は浄土宗の開祖になります。
阿弥陀仏の本願を信じてただひたすら念仏を唱えることを専修念仏(せんじゅねんぶつ)といいますが、
専修念仏によって極楽浄土に行けますよと法然は説きました。
これは明らかに他力信仰ですね。浄土教の考え方が色濃く出ています。

念仏を唱えれば極楽浄土に行ける。
分かりやすく実践しやすかったので非常に流行っていたといわれています。

それから親鸞(しんらん)は法然の弟子です。
親鸞は浄土真宗です。

ここまでのまとめ(法然と親鸞の違い)

・法然は浄土宗、親鸞は浄土真宗
・親鸞は法然の弟子(師匠と弟子の関係)

ということです。

覚え方としては親鸞は浄土真宗ということで
親鸞の『しん』と浄土真宗の『しん』で
『しんしん』とつながっていると覚えておくと
行政書士試験や公務員試験で出題されても間違えなくなるでしょう。

ところで親鸞の立場は『絶対他力信仰』です。
どういうことか?というとすべてのことは阿弥陀様のおかげだという考え方の事です。

法然の場合は念仏を唱えることは自分の力。
自分の力で念仏を唱えることで阿弥陀様の力で極楽浄土に行けると考えます。
これに対して親鸞の場合は、
そもそも念仏を唱えることことすら阿弥陀様のおかげだと考えます。
ここに違いがあります。

ここまでのまとめ(法然と親鸞の違い)

・法然は浄土宗、親鸞は浄土真宗
・親鸞は法然の弟子(師匠と弟子の関係)
・法然は専修念仏(自分の力で念仏を唱える)、
親鸞は絶対他力信仰

それから親鸞の絶対他力信仰をよく表しているとされるのが
悪人正機説(あくにんしょうきせつ)です。

悪人正機説とはどういう考え方か?というと
『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』という言葉に表れています。
これは『善人が極楽浄土に行けるのであればましてや悪人はもっと行ける』という意味です。
間違ってないですよ。
悪人の方がもっと極楽浄土に行けると親鸞は主張しています。
ちょっと逆説的な説ですが、
どうしてそういうことになるか?というと善人は
すべてを投げ捨ててすがろうという絶対他力の気持ちになりにくいと考えます。
これに対して悪人は「自分は悪いことをした」という自覚があります。
だからあらゆることを投げ捨てて阿弥陀様にすがろうという絶対他力の気持ちになりやすいとういうことです。

だから善人が極楽浄土に行けるのであれば
悪人はもっと極楽浄土に行けるという考え方が悪人正機説で
絶対他力の考え方を良く表していますね。

以上で解説を終わります。