以前の記事で罪の文化と恥の文化について解説したことがあります。
罪の文化、恥の文化というのは
ルースベネディクトの著書『菊と刀』からきています。
⇒ルースベネディクト『菊と刀』
今回の記事ではルースベネディクト『菊と刀』の
恥の文化と罪の文化について以前の記事よりも
さらに詳しく解説します。
ルースベネディクト『菊と刀』の恥の文化と罪の文化について
ルースベネディクトは『菊と刀』という本を書いています。
⇒ルースベネディクト『菊と刀』
この『菊と刀』という本は日本の文化の特徴を分析した本です。
菊というのはある家の家紋ですよね。
菊の紋章をいただいている家は何家でしょう?
天皇家ですよね。
ありがとございます😂でも確かに天皇の紋章も菊でしたよね。御葬式のイメージ強過ぎて、あれ?と思いましたが改めてみたら確かに😂😂ありがとございます!ハッピーバレンタイン💖
— Mame🇺🇸☕️🌵 (@MametarouA) February 15, 2023
天皇家の菊花紋章
菊の葉は16枚 pic.twitter.com/0inxDpZLM5— 節電 (@YamagawaH) October 18, 2019
これに対して刀は武士階級の魂ですよね。
銃規制と言えば私には明治初期の「廃刀令」が思い出される。武士の魂であったはずの刀を全国の武士は粛々と捨てた。
おそらく武士階級に信頼されていた西郷隆盛に声明を出させたからだろう。— 怪老医@doctor0621 (@doctor0621) May 17, 2022
だから
・天皇制
・武士階級の倫理観
というのがキーワードになっていると
ルースベネディクトは考えています。
たとえば日本史の教科書に
「武士は食わねど高楊枝」みたいなフレーズが掲載されているのを
見たことがありませんか?
武士はお腹を空かせているのに
「俺はお腹なんかすいてないよ」と
お腹がグーグー鳴りながらもやせ我慢して高楊枝を噛んでいるって話ですよね。
宣誓!
私は「武士は食わねど高楊枝」買わね~、喰わね~ぞ。誰だ、来る食糧危機に備えて・・等と煽ってる奴らは???貴方達は「食うのか~」???? https://t.co/oLg86DVRAX— hatabouchyan (@l2SugWsXVxvlhvs) February 21, 2023
武士にとって一番つらいことは
人前で恥をかかされることです。
そんなこともあって武士階級には特権が与えられています。
人の前で無礼を働かされた場合には切り捨てごめんという特権です。
切り捨て御免。つまり、侮辱を受けた武士に許された殺しの特権。条件も厳しく、内容に関わらず謹慎する必要もあり、乱用は出来なかったらしいが、それでも特級にヤバい奴を武士は斬ってよい法律。蛮族の極みだと思っていたが、切り捨て御免があればクレーマーやツイフェミは全員斬られているのでは?
— 大盛半チャーハン (@Big_Half_F_Rice) December 11, 2020
つまり武士にとってはプライドを維持するということが
もっとも大事な事だったのです。
だから恥をかかされるということが
武士にとってはとても嫌いなことだったのです。
そういう外面的な制裁。
たとえば人の前で笑われるとか。
人前で笑われたらとてもつらいですよね。
そういった外面的な制裁によって人々の行動が方向付けられるわけです。
たとえば笑われないようになるにはどうしたらよいか?とか
人の前で恥をかかないためにはどうしたらよいか?
そういうことが日本人の行動を方向付ける要素になっているということです。
そしてこういうことをベネディクトは『菊と刀』の中で
日本文化の特徴を恥の文化だと主張しているわけですね。
これに対して西洋キリスト教の文化の事を『罪の文化』といいます。
内面的な良心によって人々の行動が方向付けられるというのが罪の文化です。
心の中には良いこと悪いことを判断する良心があります。
刺激と反応の間(選択の自由)
自覚:自分自身を客観的に見つめる能力
想像:現実を超えた状況を頭の中に生み出す能力
良心:心の奥底で善悪を区別し、自分の行動と一致しているかどうかを判断する能力
意志:他のさまざまな影響に縛られずに、自覚に基づいて行動する能力 pic.twitter.com/wWALQxKd2S
— ハリー@双極クラブ (@sawakai2017) February 12, 2023
その良心を神という言葉に置き換えると
「神はすべてお見通しである」という感じになるでしょう。
良心=善悪を判断する。
これが神になるわけですからね。
この神を基準にして自分の行動を決めていくというのが西洋の文化です。
神に対して罪を犯さないということが行動の基準になっているわけです。
日本の場合は
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というのがありますよね。
赤信号であってもみんながわたっているから
自分もその流れに一緒になって渡っても大丈夫みたいな思想です。
悪いことをやっている中も一員であるなら
誰も自分のことを仲間は非難してこないから
やってもいいということになりやすいです。
他人にバレないなら、あるいは他人も悪いことやっているなら
それでいいというのが恥の文化です。
これに対して自分は交通法規によって
赤信号を渡ってはいけないということを知っているとしましょう。
こういう交通法規を知っている自分は
それを知りつつ赤信号を渡るわけにはいかない。
法を犯すわけにはいかない。
法を犯してた自分を知っているもう1人の自分がもう1人いる、それが神様(良心)です。
その良心を基準にした場合、
交通法規を犯すことは許されない。
そういうことを基準にして自分が赤信号を他の人がわたっていても
それに同調するわけにはいかない。
自分は良心の命ずるままに100人が行っても自分は行かない
という形で自分自身の内面的な良心を基準にして自分の行動を決めるのが西洋の文化で罪の文化です。
この2種類に分けたのがルースベネディクトでした。
以上で解説を終わります。