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一般知識

フィヒテの主観的観念論とシェリングの美的観念論についてわかりやすく解説

フィヒテ シェリング




今回の記事では

・フィヒテの主観的観念論
・シェリングの美的観念論

についてわかりやすく解説していきます。

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フィヒテの主観的観念論

前回解説したカントの哲学、思想ですが、
物自体界と現象界という形で二元論を展開していましたね。
詳しくはこちらで解説しています。
カントの思想についてわかりやすく解説

そして前回
物自体界の方が大事だと説明しましたが
物自体界を私たちは認識することができません。
つまり科学によって解明することができません。
だから道徳とか宗教というのは化学によって解明することができないわけです。

逆に科学によって道徳や宗教の領域を解明することができると考えているのは
理性の越権行為だということになります。
私たちが持っている純粋理性という能力を使って
理論的に、科学的に解明できるのは現象界だけだとカントさんは主張していましたね。
詳しくはこちらで解説しています。
カントの思想についてわかりやすく解説

そうなってくると不可知論的な形になります。
つまり私たちは自分の力では原理的に認識するができない、
絶対にわからないような世界があるということになります。
こういうのを不可知論といいます。

そうすると居心地が悪い形になりますので
どうにかして二元論を克服しようとした人たちがいました。
それが今回解説するフィヒテとシェリングです。

こういう二元論を一元論的な形で捉えなおす考え方の完成者が
今後の記事で解説しますがヘーゲルです。

で、フィヒテさんは一元論化の流れなのですが
すべてが絶対的な自我の働きだと考えました。
つまり自我というものの働きによってすべてのものが成り立っているということです。
こんな感じで自我の働きによってあらゆることがらを説明する、
そういうシステムを作ったことと、自我は主観か客観か?といったら主観なので
主観的観念論といわれたりします。

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シェリングの美的観念論

シェリングは絶対者といった無制約な者があって
これによってすべてのことがらが説明できると考えました。
絶対者というのは直観の美的働きによってとらえられると考えたので
シェリングは美的観念論といわれたりします。

どういうことか?というと
両者を同一のものと考えて同一哲学といったりするのですが
私と世界との間に共通するような何か同じものを捉えることが
人間にはできるとシェリングさんは考えました。

そして私と世界の間にある共通の同じものが絶対者になります。
こういう同じものを捉えることができるときには
私たちは美的感動みたいなものによってとらえることができる。

巨大な山


例えば何かものすごい巨大な山とか
もしくはものすごく美しい自然の崇高な美に触れた時には
私というものがなくなってしまって
私と世界が一体化している、そんなようなことを私たちは感じると
シェリングは言います。

この記事を書いている私自身、
実感としてわかりにくいですが
とにかくシェリングはそのようにいいました。

こんな感じで何か美的な感動をした時の
私と世界が一体化するような
そこにおいて共通にあるような何かというものが捉えられていて
それが絶対者です。
絶対者がすべてのものを生み出しているということから
美的観念論といわれます。

今回の記事は以上になります。