・カント
・フィヒテ
・シェリング
・ヘーゲル
が有名ですがこの記事ではカントの思想について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
カントの思想についてわかりやすく説明
イギリス経験論と
大陸合理論の対立を調停したのがカント(1724年~1804年)です。
だから西洋近代の2つの大きな流れを調停したのがカントということ。
そういう意味で非常に重要な哲学者になります。
・純粋理性批判 [ イマーヌエル・カント ]
・実践理性批判
・判断力批判 [ イマーヌエル・カント ]
という3つの本を書いています。
純粋理性『批判』、実践理性『批判』、判断力『批判』
と3つ批判があるので三批判書といわれています。
それぞれテーマが違っています。
純粋理性批判は認識論になります。
認識論というのは私たちはどうやって世界を知るのか?という理屈です。
認識論についての詳しい解説はこちらでしています。
⇒哲学とは何か?簡単にわかりやすく解説
私たちの世界を知るということの働きを解明したのが純粋理性批判です。
それから実践理性批判は道徳や倫理の話になります。
私たちは何をなすべきか?という道徳とか倫理の話です。
判断力批判は美学の話です。
私たちは何を求めるのか?欲するのか?という話です。
公務員試験レベルだと純粋理性批判、実践理性批判の内容が出ることが多いです。
公務員試験を受験しようと思っている方は必ず読んでおきましょう。
⇒純粋理性批判 [ イマーヌエル・カント ]
⇒実践理性批判(カント) (岩波文庫 青625-6) [ I.カント ]
判断力批判はあまり出題されません。
また、これから解説するコペルニクス的転回は
純粋理性批判で解説されています。
そのあと解説する定言命法といか道徳の話は実践理性批判で解説されています。
カントのいう批判とはどういう意味?わかりやすく解説
ちなみに純粋理性批判とか実践理性批判の
の批判とはどういう意味でしょう?
批判とは私たちの能力の限界を確定するという意味です。
つまり私たちの能力の範囲がどこまでか?
ということをきちんと把握する意味で批判という言葉が使われています。
批判というと相手のことをやっつけるみたいな意味で
考える人も多いです。
そんなこともあって純粋理性批判というと
純粋理性というものを批判する、やっつけるみたいな意味で
捉えるかたもいるかもしれません。
ですがそういう意味ではありません。
純粋理性とは私たちの認識を司る能力の事です。
私たちの認識能力=純粋理性という能力です。
だから純粋理性批判というのは純粋理性という
私たちの認識能力の範囲がどこまでなのか?
だからどこまで私たちは純粋理性という能力を使って
認識することができるのか?ということを扱ったのが純粋理性批判です。
実践理性は私たちの道徳的な能力です。
実際に私たちが普段生活していく中で使うような道徳とか
社会生活において使われるような能力が実践理性です。
判断力は美とかそういうものを把握する際の能力のことです。
カントの思想(1)コペルニクス的転回
コペルニクスはあなたも知っていると思いますが
天動説を覆して地動説を唱えたというやつです。
宇宙の中心に地球があってその周りを太陽が回っているのではなく
地球は太陽の周りをまわっている様々な惑星のうちの一つだ
ということで当時の宇宙観を根底から覆したのがコペルニクスです。
カントは自分の認識論も根底から私たちの一般的な考え方を覆したということで
自分の認識論の考えをコペルニクス的転回というふうに言っています。
ではこれまでの考え方というのは
どういう形の考え方だったのでしょう?
例えば世界の側に花があるとしましょう。
認識論の方ではこのことを客観といいます。
サブジェクトとオブジェクトだったらオブジェクトです。
世界の側に花というものがあって
それが私たちの方に作用してくるわけです。
光が当たって反射して、私たちの網膜で捉えて
頭の中の花の観念が浮かんでくるわけです。
別の言い方をすると私たちの心の中に花の観念が浮かぶってこと。
私たちは花の観念が心の中に浮かぶことによって
「ここに花があるんだ」と知るという形です。
私たちの網膜で捉えて花の観念が浮かんだ側を認識論では主観といいます。
つまり客観の側から主観の側へという形で
一方的に作用してそのことによって認識が成立するんだというのが
従来までの認識についての考え方になります。
特にロックなんかそうです。
これに対してカントはどう考え方(思想)か?
というと世界の側から私たちの側への一方的な作用だけではなくて
私たちの方から世界の側への作用もあると考えました。
つまり世界(客観)から私たち(主観)だけじゃなくて
私たち(主観)側から世界(客観)側への働きかけがあって初めて
世界についての認識が成立するんだというのがカントの考え方(思想)です。
私たち(主観)の方から世界(客観)の側への働きかけって
わかりづらいですよね。
これをカントは構成するという言葉で表します。
私たちの純粋理性という能力によって世界というものは構成されていると考えます。
構成された後の世界を私たちは一般的に認識するんだとカントさんは考えました。
カントに言わせると
感覚を通して得られて経験的素材。
これは従来の考え方です。世界の側から私たちの側にやってくるって形になります。
今度はそういう経験的素材を私たちは悟性(ごせい)とか
理性といった理論理性(理論的にものごとを捉える認識する能力で純粋理性と同じこと)といった
私たちの能力というものが能動的に構成することによって世界というもの(知識)が得られると
カントは考えました。
カントは客観よりも主観の優位を主張して
人間の認識能力というものが対象を構成していく。
そのことによって認識が成立すると考えました。
これは世界から私たちだけでなく
私たちから世界への働きかけがあって初めて私たちの世界認識が成立すると考えたってことです。
こういう世界から私たちだけでなく
私たちから世界への働きかけがあるというのを
特にコペルニクス的転回といいます。
私たちが世界を構成しているという立場になります。
その結果として物自体というものは認識できないという話になります。
『物自体』とは何か?というと
・認識
・経験
などの素材になっているもののことです。
物自体が私たちの方に作用しているという形になります。
すると作用してきた素材(物自体)を純粋理性が受け取ります。
純粋理性が受け取ったものを構成します。
私たちは現象界(私たちにそう現れてくる世界)を作り出しいきます。
そして私たちは純粋理性という能力を使って
自分が作り出した世界の中のものを自分で認識しているっていう形になります。
ちょっとわかりにくいかもしれませんね。
構成というのをプロジェクターで映し出すみたいな感じで考えてもらったら
わかりやすいかもしれません。
だから純粋理性というプロジェクターを使って
私たちは世界というものをスクリーンに映し出します。
その映し出された世界が私たちにそう見える世界ということになります。
自分のプロジェクターで映し出した
私たちにそう見える世界の中のことだけを
私たちは自分の純粋理性という能力を使って認識できるようになるってことです。
だから映し出された世界の前の素材の世界(物自体のこと)が
どうなっているのか?ということは
私たちにはわからないとカントは言っています。
例えば私たちにそう現れてくる世界。
猫に純粋理性があるかわかりませんが
猫にそう見える世界というのを映し出して
その中で猫は暮らしています。
犬も同様です。
犬にそう見える世界を映し出してその中で犬は暮らしています。
私たちの方からは
犬にそう見える世界というのは
どうなっているのでしょう?
猫にそう見える世界というのは
どうなっているのでしょう?
結論、私たちにはよくわかりません。
私たちはあくまでも私たちにそう見える、
そう現れてくる世界しかわかりません。
おそらく猫にそう見える世界、犬にそう見える世界、
人間にそう見える世界にすべてに共通の素材になっているのが物自体の世界です。
つまり本当の世界。
本当の世界はあるはず。
でもそれも私たちは認識することはできません。
私たちが認識することができるのは
自分の純粋理性という能力を使って映し出した後の
私たちにそう見えるそういう世界のことしかわからないと
カントは考えました。
だから『私たちにそう現れてくる』世界の
『私たちにそう現れてくる』を取り払って世界そのものを
私たちが把握しようとしても私たちには認識できない。
つまり物自体の世界(本物の世界)の在り方というのは
私たちには認識できないということです。
そして猫にそう見える世界、犬にそう見える世界といった
他の生き物にどのように世界が見えているのか?ということについても
究極のところ私たちにはわからないということです。
私たちにわかるのは私たちにそう現れてくる世界の中で
出てくるものだけだってことです。
これがカントの考え方(思想)です。
こういうカントのコペルニクス的転回という考え方が
イギリス経験論と大陸合理論を調停したということになります。
物自体(素材となるもの)が私たちの方に作用してくるという考え方は
先ほど解説した従来の考え方に近い考え方になります。
なのでロックなんかがそうですが上記画像のように
素材(世界)があって私たちの方に作用してくるという形、
これはイギリス経験論の考え方に近いです。
⇒イギリス経験論についてわかりやすく解説
そして理性を使って世界を構成していく。
理性を重視し世界を構成していく。
こういう考え方に関しては大陸合理論の考え方に近いです。
⇒大陸合理論についてわかりやすく解説
だからイギリス経験論と大陸合理論の考え方を
2つ融合して私たちの知識とか認識の成立を説明したということで
イギリス経験論と大陸合理論の考え方を調停したというふうに言われています。
カントの思想(2)因果律の捉え方
もう1つのポイントはヒュームという人において
イギリス合理論と大陸合理論の対立は頂点に達したのですが、
そのときに何が問題となったか?というと因果律というものが問題になっていました。
因果律についてはこちらの記事で解説しています。
⇒物心二元論についてわかりやすく解説
ヒュームは因果律というものを否定しました。
因果律という原因と結果の関係にあるものっていうのは
単に思考の習慣であって実際にそんなものはあるわけではないとヒュームは主張しました。
因果律に関してカントはどのように考えたのでしょう?
カントに言わせると時間と空間という概念というのは
純粋理性に備わっているものだといいます。
私たちの主観の形式だとカントは主張しました。
先ほどの例えでいうと時間と空間という概念というものは
プロジェクターに備わっている性質だということです。
だから白黒にしかうつらないプロジェクターを使って
世界を映しだしたら、映し出された世界は白黒になります。
これと同じで時間と空間の概念というのはプロジェクターの性質なので
そういうプロジェクターを使って映し出す限り
私たちにそう見える世界に関しては時空というものなわけです。
こういう時空というものがあれば
そこには因果関係が成立するとカントは考えました。
だから現象界(私たちにそう表れてくる世界)に関しては
因果が成り立っているとカントはいいます。
だから科学的に
原因結果の関係を明らかにすることによって「私たちにそう表れてくる世界」は
説明できるということです。
ですがそれを越えた物自体(本物の世界)の世界に関して
時空とか因果が成り立つのでしょうか?
カントから言わせると端的にそれはわからないとしかいえないということです。
つまり物自体というものは
そもそも私たちの純粋経験によって認識することができない世界なので
以上のような解説になります。
ということでカントはヒュームの主張に対しては
物自体の世界については因果というものは成立するかどうかわからない。
でも、現象界(私たちにそう現れてくる世界)においては
ヒュームの主張は間違っているとカントはいいます。
現象界においては因果は成り立つということです。
なのでイギリス経験論と大陸合理論の特にヒュームと
大陸合理論との対立にある一定の解決を与えたという形になります。
カントの思想(3)アプリオリとア・ポステリオリ
カントの有名な区別でアプリオリとア・ポステリオリという区別があります。
どちらもラテン語です。
アプリオリは経験に先立ってということで先験的(せんけんてき)を意味します。
これに対してア・ポステリオリというのは経験の後でということで後天的という意味になります。
先ほどの時間空間概念というのは
私たちのプロジェクターの性質ということで
あらゆる認識に先立って与えられているということでアプリオリな概念だといわれます。
カントの思想(4)二元論
以上の解説からカントは典型的な二元論(にげんろん)になっています。
どういうことかというと
私たちが認識できる世界(現象界)と私たちの認識を越えた世界(物自体)という形で
2つ世界を考えていますね。だから二元論です。
では現象界と物自体の世界ですが
カントはどちらの方が大事だと考えたのでしょう?
カントは物自体の方が大事だと考えました。
つまり純粋理性によって認識できない物自体の世界の方が
大事だとカントは考えました。
それで物自体の世界に関わってくるのが道徳とか宗教になります。
逆に現象界は私たちが科学的に解明できる世界になります。
だから科学と宗教・道徳と比べたら
カントにとっては宗教・道徳の方が大事だと考えたってことですね。
道徳とか宗教という物自体の世界というのは
純粋理性を使っては認識することができないわけですが
ではどんなふうな形で私たちは物自体の世界にアクセスすることができるのでしょう?
実践理性というものを使って想像することによって物自体の世界にアクセスできると
カントは考えました。
たとえばどういうことか?
というと神、霊魂、人格です。
神というものを私たちは認識できませんね。
目で見たり声を聞いたりできませんよね。
ですがこの世界を秩序あるものとして作ったものとして
神というものを想像することは私たちはできますよね。
霊魂もそう。
霊魂も私たちは見たりすることができませんが
魂の不滅とか死んだ後にも残るものとして想像することができます。
特に道徳の場面で重要なのが『人格』です。
人格も私たちは目で見たり手で感じたりすることができません。
だから人格も科学的には認識できません。
でも、人格というものは個人個人に備わっていて
子供のころから大人になるまで同一なままでとどまっていて
人格というものがあって私たちは他人というものを
単に自動的に動く機械として考えているわけではなくて
人格を持って自由に行動している。
だから責任も持つ。
そういうものとして私たちは想定して生きているってことです。
そもそも他人に人格を想定しないと
社会生活なんて営めませんし責任も負わすことができません。
ということで私たちは個人には人格というものがあって
私たちは人格に対していろいろ働きかけているわけです。
という形で当然子供のころからずっと変わらない
人格というものを人間は持っていると想定して私たちは生きています。
以上のように神、霊魂、人格というものを
私たちは認識することはできませんが
私たちはあるものとして想定して生きているわけです。
こういうものが物自体の世界に属するという風に考えます。
先ほど解説した本物の世界も
私たちがそう見える世界を越えたところにあるような
本当の世界の在り方というものがあるのだろうと
想像して生きているってことです。
とにかくカントは物自体の世界の方が重要だということです。
逆にカントに言わせると私たちが純粋理性を使って
科学的に解明できる範囲というのを
「私たちにそう現れてくる世界」までと限定することによって
宗教、道徳という領域を設けたわけです。
そして宗教、道徳の方が大事だとカントはいいました。
これがカントの思想の特徴になります。
もう少し詳しく道徳について解説します。
カントの思想(5)定言命法と仮言命法のどちらが大事?
カントに言わせると道徳が関係する領域は物自体の世界です。
特に人格ということですが、
人格は目で見ることができません。
でも、私たちは人格を持っていると考えられています。
人格というものが自分に対して命令をして
その命令に従うということをカントは自律していると表現します。
そしてカントは『自律』が大事だと考えました。
逆にカントがダメだと考えたのは『他律(たりつ)』です。
他律をカントは未成年状態だといっています。
他律とは人に言われてやることです。
これはカントに言わせるときちんとした大人ではないから
未成年状態だというわけです。
きちんとした大人になるためにはカントに言わせると
自分で自分に命令をして
それに従う、こういうことができることが大事だということです。
今解説したことを自律というのですが、
カントは自律が大事だと考えました。
自分で自分にする命令には2種類のものがあります。
1つが仮言命法(かげんめいほう)、もう1つは定言命法(ていげんめいほう)です。
仮言命法とは何か?というと「もしこうだったらこうしなさい」という
条件付けの命令のことです。
定言命法とは絶対的な命令のことで「ただ~しなさい」と命じることです。
つまりいつでもだれでもどこでも
まったくの条件なしに「~すべし」と命じるのが定言命法です。
この2つのものが自分に対する命令としては
考えられるわけですが
道徳法則としてふさわしいのは『定言命法』だとカントは言います。
公務員試験でこの辺はひっかけ問題で出題されますので注意ください。
つまり条件に応じてやったりやらなかったりする仮言命法は
カントに言わせると道徳法則としてふさわしくない、
むしろいつでもだれでもこうすべきという定言命法こそが
本当の道徳法則としてふさわしいというのがカントの主張になります。
だからカントに言わせると定言命法は
『汝の意志の主観的原則が常に同時に普遍的立法の原理として
妥当しうるように行為せよ』という形で定義されます。
つまり自分がやりたいと思っていることが
すべての人間がそうしなくてはならない
そういうものになるように行為しなさいという形でいわれています。
このような形でカントは定言命法こそが
道徳法則なんだと考えました。
たとえば仮言命法と定言命法で簡単な例を考えてみましょうか。
宇根さんと神岡さんがいたとしましょう。
宇根さんが電車に乗っていて座っていたら目の前に年寄りが立っていました。
そしてそのときに宇根さんの心の中から良心の声みたいな形で
「もし疲れていなければ年寄りに席を譲るべし」
というような形で仮言命法が聞こえてきたとしましょう。
そして疲れていなかったので宇根さんは席を譲ったとしましょう。
今度は神岡さん。
同じ状況で心の中から
「いついかなる時でも年寄りに席を譲るべし」と定言命法が聞こえてきたとしましょう。
それに従って年寄りに席を譲ったとしましょう。
こういう2つの場面を考えてもらいましょう。
2人がやったことなのですが
結果は同じです。
年寄りに席を譲って年寄りが感謝したということ。
ですがカントに言わせると道徳的に正しい行為をしたのは
定言命法を動機として行為を行った神岡さんの方だといいます。
だからカントの場合は行為を道徳的に
良い行為か悪い行為かと評価する場合は
結果は重視しません。
むしろその人の内面的な動機こそが行為の道徳的な評価については重要だということです。
内面的な動機を重視するので
カントの立場のことを『動機主義』といったりします。
カントに言わせると結果というのは状況しだいで
どのようにも変わりえるということです。
でも動機というものは個人の内面にあるものなので
変わりようがありません。
だから動機をもとにして行為を道徳的に評価すべきなんだと考えました。
ということでカントの道徳の立場のことを動機主義といったります。
現在でも倫理学(道徳の哲学)においては
行為を道徳的に評価する際に結果を重視すべきなのか、
それとも動機を重視すべきなのか?
ということで根深い対立として存在します。
もしくはどのように動機と結果のバランスをとればいいのか問題になったりします。
とにかくカントは動機を重視して結果は考慮すべきではないと考えました。
出は定言命法ですが
何に由来するのでしょう?
カントに言わせると定言命法は『善意志』に由来すると考えました。
善意志とは純粋に善を行おうとする動機のことです。
つまり結果とか目的とかそういうものはまったく考えずに
ただよいことだからそれがしたいといぷ気持ちが
人間には誰にもある。
こういうものが定言命法の源になっているとカントは言います。
そういう意味で理想主義的なところがカントにはあります。
カントの思想(6)目的の王国
目的の王国とは何か?
というとカントが理想とするような社会のことです。
どういう意味で使っているか?というと
人格を目的としてお互いに尊重するという意味で使われています。
ちょうど人格と対立するものとして
考えられているのが『価格』です。
他人を価格に基づいて評価するというのは
他人がどれだけ自分にとって利益になるのか?
どれだけ役に立つのか、
そういうものに基づいて他人を評価するっていうような意味です。
もしくは他人を価格に基づいて評価するというという場合には
他人は基本的に同じくらい役に立つ人間であれば交換可能という意味です。
そのような形で他人に対する関係として価格に基づいて
他人との関係を構築する、そういうものはカントに言わせるとダメ。
そうではなくて人格を目的としてお互い尊重しあう。
人格というそれぞれ独自のものを尊重する。
人格に基づいて他人を評価するということが目的の王国です。
そういう共同体が理想の共同体というふうにカントは考えました。
また目的の王国が国際化することによって永久平和が達成されるとカントは主張しました。
永久平和論といわれたりしますが、『永久平和のために』という本をカントさんは書いています。
⇒カント著『永久平和のために』
そこでカントは目的の王国が国際化することによって
永久平和が達成されると言っています。
現在の国連みたいな考え方の元になるような形のものを展開したりしています。
以上でカントの思想についての解説を終わります。