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一般知識

白河上皇はなぜ院政を始めたの?わかりやすく解説

白河上皇 院政 なぜ




この記事では白河上皇はなぜ院政を始めたのか、
わかりやすく解説していきます。

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なぜ白河上皇は院政を始めたか?

上皇と天皇の違い

白河上皇

今回の記事は上皇と天皇の違いがわかっていないと
ちんぷんかんぷんになると思うので
先に解説しますね。

まず白河上皇となっていますね。
もちろん誤記載ではありません。
白河『天皇』ではなくて白河『上皇』です。

上皇とは後継者に天皇の地位を譲った人のことです。

荘園停止

平安時代後期にはいってくると、
全国の荘園の状態が把握できないほどになっていました。
正式なオーナーがいったい誰か?みたいな話です。
国司が無理やり租庸調を奪いに来るのを防ぐために
いろいろ細工したからです。
詳細はこちらをご覧ください。
寄進地系荘園についてわかりやすく解説

天皇も正式な持ち主が誰なのか?よくわからない、
記録も残っていないような荘園については
天皇もときどき整理していました。

整理とはどういうことか?というと
荘園停止という命令を出して、
「その荘園は天皇のもの」として没収みたいなことをやっていたのです。

とにかくいったい誰が正式な持ち主なのか?
わけがわからない荘園があったわけですね。

それを荘園整理令といっていました。

後三条天皇、延久の荘園整理令

荘園整理令の中でも
後三条天皇による延久の荘園整理令は有名です。
それまでの天皇と後三条天皇にどんな違いがあったか?
というと藤原氏の血をちいているか、ひいていないか?の違いです。

藤原氏はどうやって政治の中枢を権力者として担ったのか?
というと、自分の娘を天皇に嫁がせて
生まれた息子を次の天皇にするということ。
藤原氏は今の天皇の嫁さんの親父として権力を握っていたのです。

だから天皇になる人というのは
なんだかんだいって藤原家の娘から生まれた男の子というパターンが多かったのです。

したがってわけのわからない荘園がある場合、
その荘園を天皇のものとして没収するという作業をやるにしても
藤原家の息のかかった荘園に対して手出しをすることができません。
なぜなら母親の実家の息がかかっているかもしれませんからね。
おじいちゃんのもの(藤原氏)かもしれないってことです。

だから藤原氏の息がかかってそうな荘園に対して
手出しはしてきませんでした。

でも後三条天皇は藤原家と何の親戚関係もありませんでした。
だから問答無用で藤原氏のものであろうがなかろうが、
とにかくあいまいな荘園は片っ端から没収していったのです。
これが延久の荘園整理令です。

そのおかげで藤原氏の持っていた荘園も
後三条天皇による延久の荘園整理令によって
没収されて行きました。

藤原家がどうして羽振りのよい生活ができたか?というと
全国から藤原氏のもとに荘園経営者が殺到していたからです。
自分の荘園のオーナーになってくださいみたいな申し出が。
これは寄進地系荘園のところで解説済みです。
寄進地系荘園についてわかりやすく解説

で、毎年藤原家のもとに
一定の収入が転がり込んできたわけです。
でもそれが後三条天皇による延久の荘園整理令によって
わけのわからなくなった荘園については
全部天皇に没収されてしまったわけなので
藤原家もそれまでみたいに羽振りのよい生活ができなくなっていきました。
これが後三条天皇による延久の荘園整理令です。

院政(11世紀から12世紀の平安後期)の始まり

これは天皇自身も苦しむことになります。
今までの天皇はそんなふうに自分の母親が藤原出身だし、
自分が産んだ息子もその強力な藤原氏がバックアップしてくれて
絶対自分のあとの次の天皇になることは確約されているわけです。
でも、ここまでの解説のように藤原氏の力が衰えてきたわけです。

となると、自分が産んだ息子が
本当に次の天皇になってくれるかどうか?
ちょっと危うくなってくるわけです。
藤原家の強力なバックアップがあった時代だったら
絶対に天皇になれました。
でも、藤原家の力が衰えてきたので、不安でしょう。

自分の息子が確実に
天皇になって欲しい(自分のあとを継いでほしい)と思うはず。
ではどうすればよいでしょう?

当時、乳幼児の死亡率が高かったようです。
でも10歳をすぎたらだいたい長生きできたようです。
だから子供が10歳を過ぎたら次の天皇にして
自分は天皇を引退という形をとりました。
この引退という形を『院(いん)』とか『上皇(じょうこう)』といいます。

とはいえ、10歳の天皇が政治をできるわけではありません。
10歳の息子(天皇)の親父(上皇)が代わりに政治をしました。
これを院政といいます。
天皇を引退した上皇(院)が政治を行うから院政です。

院政を始めたのは白河天皇です。
白河院(白河上皇)として始めました。
こうやって自分の息子を確実に次の天皇にしていくということをしていったわけです。

以上が白河上皇が院政を始めた理由です。