西田幾多郎は1870年生まれで1945年に亡くなっていますが
独自の哲学体系を作り上げた方です。
この記事では西田幾多郎の純粋経験についてわかりやすく解説します。
西田幾多郎の純粋経験についてわかりやすく説明
西田幾太郎さんは日本独自の哲学を展開した人です。
非常に評価の高い哲学者として知られています。
Eテレ「西田幾太郎と京都学派」を懲りずに最後まで見て思う。
自由な雰囲気でも、 税金で賄われていた帝国大学。
戦時中は否応なしにも、戦争遂行の大義名分を作る為に巻き込まれはしたが、そこを除けば、東洋と西洋の哲学を結ぶ窓を開けた、業績は今も尚、世界中から評価されている。— meza mashi (@meza_mashi) January 20, 2013
・主観
・客観
が対立する仕方で捉えます。
どっちが先なのかとかどういうふうな関係になっていて
私たちの認識が成立するのかというのが
問題になったりします。
主観が『私』で客観が『世界』の側だと考えてください。
どういうことかというと『私』と『世界』の間で
どういう関係が成立することによって私たちは
世界を知ることができるのか?ということがテーマになっています。
カントの認識論と似たような感じです。
⇒カントの認識論について解説
以上は主観と客観の対立と言ったりしますが
西田幾太郎は主観と客観が分かれる前に
『純粋経験(じゅんすいけいけん)』という経験の状態があると主張しました。
純粋経験の状態というのは『主客未分』だと西田幾太郎は主張しました。
どういうことか?というと主観とか客観に分かれる前(未分化)の状態なんだということです。
そういう純粋経験という主観(私)と客観(世界)が融合しているような状態があって
そして後で主観と客観に分かれてきて、「あぁ、私の経験」みたいに主観があって
経験の内容として世界(客観)があるという形で現れると西田幾太郎は主張しました。
・純粋経験とは主観と客観が分かれる前の経験の状態
・純粋経験は主観と客観が融合しているような状態
・純粋経験の跡に主観と客観が現れる
ということです。
だからあくまでも純粋経験の方がより根源的なものとして
存在すると西田幾太郎は主張しました。
純粋経験という言葉自体は
プラグマティズムのジェームズから来ています。
⇒プラグマティズムの意味についてわかりやすく解説
純粋経験はジェームズが大元だってことです。
ジェームズが作った純粋経験という言葉を西田幾太郎がもらって使っているわけですね。
単純に純粋経験という言葉をもらうだけでは芸がありません。
西田幾太郎は純粋経験みたいな経験の状態を
東洋の『禅』の悟りみたいな経験と結びつけています。
だから東洋の考え方と西洋の考え方をうまく融合して
純粋経験という概念を作り出す。
これによって西洋の伝統的な主観客観の対立の問題である認識論を
説こうとしたということで西田幾太郎は海外からの評価が高い哲学者になっています。
日本において哲学者といわれると西田幾多郎といわれるくらい
評価が高いです。
今回の記事は以上になります。