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一般知識

大宝律令についてわかりやすく解説

大宝律令 わかりやすく




大宝律令は大学入試でも公務員の採用試験でも
めちゃくちゃ出題されるところです。

大宝律令という『法律』で定められたルールについて
試験でよく出題されます。

この記事では大宝律令という法律について
わかりやすく解説していきます。

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大宝律令とは?わかりやすく説明

大宝律令という法律は701年にできました。
ただちょっと注意してほしいことがあります。

大宝律令は2種類の法律からできている

大宝律令というのは2種類の法律を一言で
言い表した言い方になっています。

(1)大宝律(たいほうりつ)といわれる法律
⇒刑罰が定められている(刑法)

(2)大宝令(たいほうりょう)といわれる法律
⇒政治の行い方(行政法)や人々の暮らし方(民法)

の2種類の法律を一言で言い表しているのが
大宝律令(たいほうりつりょう)ということです。

大宝律の律とは現在の刑法に相当します。
刑罰が定められている法律が律です。

それから大宝令の令(りょう)は
政治の行い方である行政法や人々の暮らし方である民法が定められています。
こんな感じで2種類の法律を一言で言い表した法律が大宝律令です。

したがって公務員の採用試験を作る人や
大学入試を作る人はこの辺の話をひっかけ問題で出題してきます。

ありがちなひっかけ問題

律とは行政法や民法で令とは刑法のことである

みたいな感じです。

正しくは

律とは刑法のことで令とは行政法や民法のこと

ですからね。

絶対にひっかからないでくださいね。

令は人々の暮らしである民法や政治のやり方である行政法が書かれています。
人々はどんな税を納めないといけないか?なんかも書いています。

では令に書いてある
税を納めるという規定を怠った人が出てきたら
律によって刑罰を与えるわけです。

律

どんな刑罰を与えるか?具体的には大宝律の方に書かれています。
「棒叩き100回」みたいな感じで。

大宝律令という2種類の法律は日本で初めて作られたものではない

大宝律令は2種類の法律でできている


大宝律令という2種類の法律は日本で初めて作られたものではありません。
内容はよくわかりませんが668年に作られた『近江令(おうみりょう)』という法律がありました。
また、689年にできた飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)』という法律がありました。

大宝令(大宝律令ではない)は

西暦でいうと600年代の後半に作られた

・近江令
・飛鳥浄御原令

という法律の内容をあらかたマネしてできたのではないか?
といわれています。

だから

大宝律令は日本で一番最初にできた法律である

という記述があったら間違いの選択肢になります。
ご注意ください。

日本で一番最初にできた法律は668年にできた近江令です。
ちなみに近江令は天智天皇が作りました。

そして飛鳥浄御原令は天智天皇の娘にあたる持統天皇のときにできた法律です。

なので大宝令の方は600年代にできた飛鳥浄御原令や近江令の内容を
あらかた書き写しているのではないか?と考えられています。

大宝律令の条文は現存していない

では公務員試験は大学入試の日本史のために
今から条文でも覚えましょうか?
といわれたらめちゃくちゃ焦りますよね。
司法試験でもないわけですからね。

大宝律令の条文は現存していません。
具体的にどんな条文があったか?
私たち現代人にはわかりません。

でも、「こんなことが書かれていた」っていうのがわかっています。
なぜなら大宝律令を作った藤原不比等という人は
大宝律令を作った17年後である718年に養老律令という
新しい法律を作り直しています。
この養老律令の方は中身をほとんど復元できているからです。
とくに養老令の方は復元できています。
刑罰である養老律の方は復元できていません。

平安時代の貴族が
藤原不比等が作った養老律令は17年前の大宝律令を
ほとんどコピーしたものだという証言を残しています。

これからさらに大宝律令の内容を解説していくものの
何が書かれていたか皆目わかりません。
ですが、あくまでそれは養老律令にコピーされているという言葉を信じて
大宝令には「こんなことが書かれていたのだろう」
ということがわかるわけです。

逆に刑罰である大宝律の方は
あまり情報が残っていないのでわかっていません。

ということなのでこれから大宝律令の内容を解説しますが
わかっているのはあくまで政治のやり方と
人々の暮らしが規定されている大宝令の方だけです。

大宝律令:中央

太政官


政治の行い方です。
中央ですから行政に関して都のある場所にどんな役所を作って
その役所の中にどんなポストを設置するのか?定められています。

中央である都のあるところには
二官八省(にかんはっしょう)』とよばれる中央省庁が
置かれるようになりました。
二官八省が中央省庁の役所の名前です。
二種類の役所がまずあります。

二種類の役所とは

・神祇官(じんぎかん)
・太政官(だいじょうかん)

のことです。

現在だと警察官とか消防官と『~官』と書くと人のことを指しますが、
当時の神祇官や太政官というのは役所の名前です。
神祇官という役所と太政官という役所を作ったってことです。

話を元に戻します。
漢字を見ると、神祇官という役所の方は『神様』という漢字を使っているように
天皇が行うおまつりを執り行った役所です。

太政官の方は『政治』の政が入っているように
政治を行うところでした。

なので、具体的に土木工事をどれくらいやるか?とか
軍隊をどれくらい作るか?とか一般的な政治は太政官がやります。
そして太政官のもとに8省が設置されました。
政策の内容によって8つの部局が作られたってことです。

公務員試験的には全部覚える必要はありません。
政治をやったのはどっちなのか?
実際の政策を実行する8つの部局は
神祇官か太政官のどっち?ということを覚えておくと点になると思います。

ちゃんと大宝令の中でどんな部局があって
その部局の中にどんな部があって
それぞれの部署にはどんなランクの役人を配置するのか?
全部定められていたといわれています。

大宝律令:地方

地方は全国を

・国(こく)
・郡(ぐん)
・里(り)

に分けました。

例えば東京だったら
今の東京都や埼玉県、あと川崎、横浜を含めた地域は
武蔵野国(むさしのくに)とよばれる国でした。

この武蔵野国という国の中にいくつかの郡があります。
例えば、秩父郡(ちちぶぐん)とか、豊島郡とか葛飾郡とか。
今でも地名になっていますが、それは国(こく)の中にある郡(ぐん)です。
郡の中に里(り)と呼ばれる集落がいくつもあります。
今の日本でいう都道府県や市町村です。

そして国には総責任者である国司(こくし)が、
郡には総責任者である郡司(ぐんじ)が、
里には総責任者である里長(りちょう)が任命されて仕事を行います。

で、国司は中央から派遣されます。
国の総責任者である国司というのは都から派遣された役人です。
どんな仕事をするか?というと武蔵野国の国司は
武蔵野国という地域内のすべての裁判を行い、
武蔵野国に駐屯している軍隊に対して命令を出します。
また国司は警察や裁判に対しても総責任者の立場にあります。
集める税もすべて国司が集めて都に送ります。
一種の武蔵野国の独裁者みたいな感じです。

そして武蔵野国の各地の有力者が郡司や里長となって
国司の手足となって働きます。

当時、中央といえば都でした。
都は奈良や京都にありました。
関西です。
だから関西から派遣されてきた関西人が
武蔵野国の総責任者になります。4年間くらいです。
だから江戸っ子はどんなに出世しても国司にはなれません。
頑張っても郡司止まりです。
で、関西からやってきた関西人の国司に仕えるわけです。
そういう仕組みです。

だから地方の有力者から国司が任命されるわけではありません
国司は全員関西人です。
都のある奈良や京都から派遣されるからです。
お間違いのないようにお願いします。

以上で政治についてはおしまいです。

大宝律令:班田収授法は法律のこと?

班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)は法と書いてますが、
法律の名前ではありません。
新しい法律が作られたわけではなく、
班田収授法とは班田収授というやり方という意味です。
法とは『やり方』を意味します。

班田収授というのはどういうことなのでしょう?
すべての人々に土地を与えて
耕してもらって授与します。
そしてその人が死んだらその土地を国に返す(収める)。
こんな感じで人と国との土地の受け渡しを班田収授といいます。

どういうルールか?というと
土地というのは一人一人個人のものではなく国のものだということ。
当時、国で一番偉いのは天皇だったので
土地は天皇のものだということです。

なのですべての人間は天皇から一時的に土地を与えられて
天皇のために土地を耕します。
死んだらその土地を天皇に返してくださいということです。

大宝律令:公地公民制

まず前提として土地はすべて天皇のものであり
個人のものではないということです。
それを公地公民制(こうちこうみんせい)といいます。

したがって自分が畑仕事をして耕している土地は
自分のものだから自分が死んだら息子にそのまま相続させて
土地を耕し続けてもらうのは禁止です。
やってはいけません。
自分が死んだらその土地は息子に譲るのではなく天皇に返します。
息子は息子で別なところから土地を貰ってたりしますから。

それから土地を耕していたけど、
畑仕事が嫌になり商売やりたいから土地を売るのは禁止です。
売買も禁止。
これが公地公民です。
土地は公(天皇)のものだということです。

なので日本人は全部、一定の年齢になると
天皇から土地を与えられます。
そしてその土地を死ぬまで耕します。

男性も女性も6歳になると国から土地を与えられて
その土地(口分田)を死ぬまで耕せといわれます。
年齢はよく覚えておきましょう。

良く出される間違いは

×成年
×成年男子

などです。

成年でなく6歳ですし、女性ももらえます。
成人ではなく6歳ですからほんの子供です。
6歳の子供が土地を耕せるか?といったら耕せないので
父親や母親が代わりに耕したのだと思います。
とにかく6歳になると土地を与えられて納税者になります。

土地を与えられたら天皇のために耕さないといけません。
耕したら作物ができる。
できた作物は天皇に納めるということです。

なので6歳から納税者です。

ではどんな風に分け与えていったのか?
というと、戸籍調査をするわけです。
6年に一度です。
前回の戸籍調査で名前がなかった。
でも今回の戸籍調査に名前が載っている。
ということはその人は6歳未満でしょう。
前回から今回までの6年間の間のどこかで生まれたはずですから。

また6年後に戸籍調査をやってみた。
そしたらまたその人の名前が載っている。
絶対その人は6歳以上です。

6年前にも名前があり、
今回も名前があるわけですからね。
「じゃ、土地を与えよう」ということです。
これが戸籍です。

それから計帳(けいちょう)という用語がありますが、
計帳というのは土地を与えたのであれば
毎年作物ができあがるので
では1人1人、どのくらいの作物を納めるべきか?
納めるべき額が書いてあります。

そういったものを作って土地を与え、
そして土地を与えた人から国司が税を取り立てていったわけです。

ただ男女でちょっとした差がありました。
女性の方が若干少なかったようです。
男女平等ではありませんでした。

大宝律令:税制

それから税について解説します。

税は

・租(そ)・・・お米
・庸(よう)・・・労働
・調(ちょう)・・・特産物、布など

という3種類の税が義務付けられました。

現在では税は税金としてお金を納めますが
当時はお金も出回ってませんでした。
だから作った品物をそのまま納めさせました。

で、租というのは『のぎへん』を使ってますように
『のぎへん』というのは稲穂から発展した象形文字なので
『租』は穀物ということがわかります。

収穫できたお米の3%は租と呼ばれて
税として国司に納めました。

それから庸は労働です。
都に行ってタダ働きをします。
警備員とか掃除係とか都の役所での炊事係とか。
タダ働きする労働そのものが税になっていたわけですね。

調というのは特産物とか布などになります。
特産物があれば特産物が税になります。
「うちの町ではお酒が特産物です」というのなら
特産物のお酒を都に納めることになります。

特産物がない地域だったら夜中に機織りして
できた布を納めることになります。

その地その地で作られたいろんな物品を納めるのが調です。

武蔵野国では布を調として納めていた有名な地域が
東京都内にあります。
今、どんな町か知ってますか?
調布市です。
調布市って読んで字のごとくですね。
実際、そうやってつけられた名前なので、
おそらく調布市の小学生はみんな調布市の名前の由来を習うようです。

租庸調をやってたときに布を作っていた地域なので
調布市となっています。

それだけじゃありません。
庸というのは都に行って国のために天皇のために働くわけですが
国司のいる事務所に行って国司のために働くという労働もあります。
労役と呼ばれ、税の一種です。

それから男性は集落ごとにくじびきをしていたのですが、
くじびきに当たった人何人かは遠い所で何年間か兵隊をやらされました。
これも兵役という税です。

なので

税は

・租
・庸
・調
・労役
・兵役

とあったってことです。

注意して欲しいのは上記5つの税のうち
租、庸、調、労役、兵役の4つは
成年男子のみ納めないといけない税です。

女性はやる必要はありませんでした。
女性は与えられた土地でとれた作物の3%を納めればOKでした。
これに対して男性はつらいですね。すごくつらいです。
例えば男性が布を作って納めるというのはどういうことか?というと
東京から奈良まで自分でかついで持って行くのです。
当たり前ですけど。
佐川急便とかクロネコヤマトとか当時はありませんでしたからね。

かついで持って行く道。
1ケ月くらいかかるのですが
その間の旅費は全部自分持ちです。

しかも都で天皇のためにタダ働きするわけですが
その間の滞在費も全部自分持ちです。
税を納めに行っているのですから
税務署が交通費を払ってくれるわけがありません。
全部自腹で行くわけです。
だからものすごい重労働です。

兵役なんていったら
3~4年お父さんは帰ってきませんから
働き手がいないということでだいたい一家離散状態になっていたようです。
そのような重税だったということです。

これがスタート時点で決められたことです。
まず土地は誰のものなのか?ということと
人々はどんな税を納めないといけないのか?
あと、政治をやるシステムってどんな責任者がいて
どんなことをやったのか?というのが公務員試験などで出題されます。

今回の記事は以上になります。